看護師父さんの仕事と生活の記録

アクセスカウンタ

zoom RSS メメント・モリ 藤原 新也

<<   作成日時 : 2013/10/15 17:35   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 0


写真集+詩集。

看護師としては、
患者さんの死にはよく接するので、
死について思うことは多い方かもしれない。



本書より、
今の私の心に響いた言葉。

死というものは、なしくずしにヒトに訪れるものではなく、死が訪れたその最後のときの何時かの瞬間を、ヒトは決断し、選びとるのです。
だから、生きているあいだに、あなたが死ぬときのための決断力をやしなっておきなさい。p29


患者さんが死んでいくときに、
家族が患者さんの元に到着すると、まもなくして息を引き取ったりすることがあって、
意識はほとんどない状態でも、
家族がそばに来てくれたことを、分かっていたのだろうなと思うことがある。

なので、この文章のなかの、
死ぬ人自身が、死の瞬間を決断し選び取る、
というのは、
確かにそうなのかもしれないと思う。

家族が到着してまもなく息を引き取った患者さんは、
最後に家族に会えたその時に、
これで最期だと決断したのだ。

自分自身がどんなふうに死を決断するであろうかといことは、
まだ想像がつかないけど、
家族が到着して決断するというのは、
悪くないなと思う。



あの人骨を見たとき、
病院では死にたくないと思った。
なぜなら、
死は病ではないのですから。p39


現代では、
死は病と同じように考えられているのかもしれない。

おそらく、
病院で死ぬことが多くなってから、
そう考えられるようになったのだろう。

病は死の要因になることはあるだろうけど、
根本的な原因とはいえないのかもしれない。

死の根本的な原因は、
人は死ぬようにできているから、
だろうか。

看護師を10年ほどしていて、
今までに一度だけ、
医師が死亡診断書に「老衰」と書いたのを見たことがある。

それをみたときに、
なんだかホッとしたような気持ちになったことを、
覚えている。



死とは、死を賭して周りの者を導く、
人生最後の授業。p42


看護師は、
そんな授業を頻回に受けていることになるな。

そのせいで、
自分の人生観は確実に変わってきている。

どうせ死ぬのに、なぜ生きるのか、
と、
自分が10代くらいのころはよく考えていたような気がするが、
10年ほどそんな授業を受けた結果、
現在は、
どうせみんな死ぬのだから、生きている間は一生懸命生きればいいじゃん、
みたいな感じかな。



母の背は、荒野に似る。p93

母の背と荒野は対局にあるような気がするけど、
それを「似ている」としたときには、
人は小さな赤ちゃんのときから、
いろんなものを背負っているんだなということがはっきりする。

現在3ヶ月の自分の子供の見え方が、
少し変わったような気がした。



肉親が死ぬと、殺生が少し遠ざかる。一片の塵芥だと思っていた肩口の羽虫にいのちの圧力を感じる。草を歩けば草の下にいのちが匂う。信仰心というのはこんな浅墓な日常のいきさつの中で育まれるものか。老いた者の、生きものに対するやさしさは、ひとつにはその人の身辺にそれだけ多くの死を所有したことのあらわれと言えるのかもしれない。p116

とくに、
「いのちの圧力」という部分が好きだな。

看護師をやっていて、
患者さんの死をたくさん見てきたせいか、
信仰心みたいなものが、
自分の中で育ちつつあるのを感じることがある。




テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
―――――――――――― グーグルによるこのブログ内の検索
メメント・モリ 藤原 新也 看護師父さんの仕事と生活の記録/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる