看護師父さんの仕事と生活の記録

アクセスカウンタ

zoom RSS 生きて死ぬ私 茂木 健一郎

<<   作成日時 : 2012/04/01 06:54   >>

なるほど(納得、参考になった、ヘー) ブログ気持玉 1 / トラックバック 0 / コメント 2


生きて死ぬ私 (ちくま文庫)
筑摩書房
茂木 健一郎


Amazonアソシエイト by 生きて死ぬ私 (ちくま文庫) の詳しい情報を見る / ウェブリブログ商品ポータル



脳科学の研究者が生きること死ぬことについて考えた、
随筆集のような本。

著者が33歳の時の本だそうで、
著者いわく、

私の「遅れてきた青春の書」p229

ということ。


本書を読んで、

人間の心は、脳内現象にすぎない

というのが、
現代の科学の到達点だろうけど、
その先があるのかどうかということはまだわからないことだし、
その先があることがわかった後の世界は、
今とは全く違うものになるだろうなと思った。


私は著者がこの本を書いたころより一つ年上だけど、
死ぬことについて最近良く考える気がする。

30半ばというのは、
そういう年代なのかもしれないと思う。





本書より参考になったと思うところ。



哲学とは何か。

哲学者が必死になって切り開いた地のフロンティアの恩恵を、何年か経って、普段は哲学など考えもしないような一般の人々も受ける。逆に、今日普通の人が何気なく考えていることの多くは、何年か前には哲学の最先端の問題であった。哲学者が、ときには発狂の危険まで冒して(!?)獲得してきた「知」の最先端が、何年か経って、一般の人が「そんなの当たり前でしょう」と欠伸しながら言うような一般常識に変貌するのである。p31

この話とは少しずれるかもしれないけど、
個人の精神の発達にも、
哲学の歴史を辿るようなところがあると思う。

霊的なものを素直に信じられていた子どものころから、
唯物的な考え方にシフトして行くなどの変化が起きた後には、
昔の考え方をしていた自分のことが、
想像もできなくなる。

そういう変化が、
世界にとっても個人にとっても
常に起きる可能性があるということは、
怖くもあるし、
楽しみでもある。





人間の幸福について。

人間の幸福のために必要なファクターは、案外とはっきりしたものだ。では、人間が幸福になるためには、どのような条件を整えればよいかと問えば、多分こんな答えが返ってくる。
たとえば、大きな広々とした空間のある家(かつて、ある政治家は、日本人の一人当たりの居住面積を二倍にするという計画を発表したが、なかなかの慧眼といえるだろう)。
家族や、心の通い合う友人たちや、あるいは恋人と過ごすゆったりとした時間。
好きな時に、好きな場所に行ける手段と余裕があること。
将来の目標についてある程度の展望がああり、その目標に向かって、少しずつでも進んでいるという感覚のあること。p42


この部分は、
文章の本筋からは少し外れて書かれているところだったけど、
とても参考になると思った。

自分が何か不満を抱えているような気がするとき、
満たされていないような気がするとき、
この四つの項目、

大きな広々とした空間のある家、
家族や、心の通い合う友人たちや、あるいは恋人と過ごすゆったりとした時間、
好きな時に、好きな場所に行ける手段と余裕があること、
将来の目標についてある程度の展望がああり、その目標に向かって、少しずつでも進んでいるという感覚のあること、


について、
どれかが足りないのだろうなと考えてみると、
「満たされた」という感覚を得るために、
自分がとるべき行動が見えてくるように思う。

ちなみに私の妻に聞いてみたら、
現在は、

好きな時に、好きな場所に行ける手段と余裕があること、

が、
一番不足しているということだった。

子育て中の女性には、
こういうことが問題になるのだな。





覚醒夢を見る方法。

覚醒夢を見ることができるようになるためのトレーニング法が興味深いのである。といっても、特別なことをするわけではなく、ただ、昼間覚醒している時に、自分に次のような問いかけをするのだ。
今、私は本当に目覚めているのだろうか?
今、私が目の前に見ている風景は、現実の風景なのだろうか、それとも、私の脳がつくり出した幻覚なのだろうか?
このような問いかけを、一日のうちに何回か、できれば一定時間おきに、たとえば三十分おきに、自分に対して行う。すると、夜、夢を見る時に、右にのべたように夢の成り雪をある程度コントロールできる、覚醒夢の状態に入ることができるというのである。p134


覚醒夢を見るための訓練方法があるのだな。

知らなかった。

自由に自分の思いどうりに夢が見られるようになったら、
マトリックスの世界みたいだ。





死に対する感覚について。

親が生きている間は、その存在が「重し」になっていて、自分が死ぬことになるとは思わないものだという。親が死んでしまった時、初めて、自分と死の間に境がなくなって、自分がいつ死んでもおかしくない、死が近しいものになるという。p186

親にはこんなところでも、
助けられている。





最後に、
なぜ死のかということに関して私なりの考え方。

進化(環境への適応)を必要とする限りは、
生物は死なないといけないのだろうと思う。

環境が変化する限り
不死を存在させてしまうと、
その生物の存在を揺るがすような環境の変化=絶滅、
ということになる。

変化への対応が必要な限りは、
古い個体が死んで、
より生存に適した可能性のあるものに、
交代していくしかない。

環境の変化がなくなるか、
環境の変化に対する対応を必要としなくなった生物が出来上がったら、
おそらく「死」はなくなる。

人間はそうなれるかな?



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ
気持玉数 : 1
なるほど(納得、参考になった、ヘー)

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
幸福かと聞かれたら幸せだと思うのですがやはり何か満たされないものがあります。今の私にとっては目標となるものなのかなとおもいます。 一時期、死ぬことについてひどく不安になっていたことがあります。夜中にふと死がよぎるととても不安になり叫びそうになるくらいでした。今は死ねない事の方がよっぽど恐ろしい気がしますが。これも変化した事なのですかね。とても参考になりました。
だいき
2012/04/02 10:45
「死」がなかったとしたら、頑張ろうと思えるだろうか、とも思います。永遠に生きていられるなら、「今」やる必要が無くなってしまう気もします。
もり
2012/04/04 06:43

コメントする help

ニックネーム
本 文
―――――――――――― グーグルによるこのブログ内の検索
生きて死ぬ私 茂木 健一郎  看護師父さんの仕事と生活の記録/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる