看護師父さんの仕事と生活の記録

アクセスカウンタ

zoom RSS 終末期患者からの3つのメッセージ 大津秀一

<<   作成日時 : 2017/08/20 21:35   >>

ブログ気持玉 0 / トラックバック 0 / コメント 0


勉強のために読んだ。


参考になったと思うところ。

客観的には幸福だったであろう方が「私は世界一不幸です」と嘆き、客観的にはこれ以上の過酷な人生はないかもしれないという方が「先生、私は幸せでしたよ」と柔らかい笑みを浮かべた。つまり、幸福か不幸かは、そう思えるかどうかにかかっていることがわかった。
死もそうだ。もちろん身体的な苦痛が取り除かれなければ、誰も生に肯定的な意味など見出しえない。早く死にたいと願ってしまうだろう。しかし身体的な苦痛が緩和されたとき、必ずしも終末期の患者さんの心が絶望で満たされていないことに私たちは気がつく。p3


自分は幸福だったということは、
その言葉を聞いてくれる相手がいるからこそ出てくる言葉だと思う。

終末期にある人にそう言われたときに、
相手からそのような言葉が引き出せたということに関して、
聞く側の存在が価値があったことになるだろう。

逆に、
相手がいるためにそのように言わざるをえなかった、
という場合もあるかもしれないけど、
それはそれで、
そう言わせたことに価値があるのかもしれない。

笑うにしろ嘆くにしろ、
誰かほかの人がそこにいることが大切なのだなと思う。



病院死の増加も目立つ。1977年、病院死と在宅死の総数が逆転して以来その差は開き、現在では78.6%(2008年)が病院で亡くなっていることになる。p15

関係ないことだけど、
1977年は私が生まれた年だ。

データとして覚えておくと、
だれかに説明したり議論をしたりするときに、
役に立つかもしれない数字だと思う。



矛盾しているように聞こえるだろうが、やり残した仕事があるという事実こそが一種の充足にほかならないと考えるべきであろう。p21

死ぬときに、やり残したと思う仕事というのは、
自分の命にかえても成し遂げたかった仕事であって、
そんな貴重な仕事ができていたということは、
充実し生が送れていたということになるのだろう。

もしも、
死ぬときに、仕事から解放された気持ちがするなら、
生きて働いていることは、苦痛でしかなかったことになるのかな。



余命6ヶ月いないの終末期である場合、患者本人に病院が病名を告知したケースは45.9%だった。同じく治療方針の確認は47.2%。余命の告知は26.6%、延命処置の希望の確認は15.2%とおしなべて低い。これが家族への告知となると、病名の告知が95.8%、治療方針の確認が83.4%、余命の告知が90.8%、延命処置の希望確認が86.8%となる。p28

フランスの歴史家フィリップ・アリエスは、死がタブー化されたのは20世紀初頭のアメリカからであると記しているが、これほどまでに死がタブー視される歴史も実はそう古いものではない。しかし死がタブー視され、死について話すことが後ろめたくなっている昨今、それがさまざまな困難を生んでいる。たとえば、医療分野においては終末期や死について患者さんと直截に話し合うのが難しく、重大な決定が家族や医療者の推測でなされることも珍しくない、といったように。p32

死のことを面と向かって話すのがタブーなのは、
死について意識すると、
自分に死が近づいてくるような感じがするからだろうか。

「死について一緒に話をしませんか?」

と、誰かに問いかけたら、
たいていの人に、

「縁起でもない!」

って、
言われそう。

きっとみんな、
死が身近にあることを、
何とかして忘れようとしているか、
思いださないようにしているのだな。

私もそうだけど。

死が怖いのだ。



テーマ

関連テーマ 一覧


月別リンク

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!
ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。
→ログインへ

トラックバック(0件)

タイトル (本文) ブログ名/日時

トラックバック用URL help


自分のブログにトラックバック記事作成(会員用) help

タイトル
本 文

コメント(0件)

内 容 ニックネーム/日時

コメントする help

ニックネーム
本 文
―――――――――――― グーグルによるこのブログ内の検索
終末期患者からの3つのメッセージ 大津秀一 看護師父さんの仕事と生活の記録/BIGLOBEウェブリブログ
文字サイズ:       閉じる