看護師父さんの仕事と生活の記録

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zoom RSS いのちの砂時計―終末期医療はいま 共同通信社社会部 (著)

<<   作成日時 : 2017/07/20 08:00   >>

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勉強のために読みました。

感想の二回目です。


「明確なルール」というのは「画一的なルール」と同じ。でも終末期医療というのはひとくくりにして論じることはできないんです。呼吸器外しまではいいけど、水分補給の中止は認められないとか、画一的に決められると思いますか。やっぱりそれは医療現場で患者の状態をみながら判断するしかない。がんの末期、慢性疾患の末期と患者の状態はさまざまで、性格も、取り巻く医療環境もそれぞれ違う。それなのに患者を見ないでルールを見て、こういう状態になったら「はい、やめましょう」というのはどうか。「もう悩まなくていい」というものを医療従事者が求める気持ちは分からなくはないが、本来医療というのは、悩みがなくなったらおしまいじゃないかと思う。
「指針はあいまいだ、頼りにならない」という批判も分かるけど、それは意識してやっていること。画一的なやり方を避けた「柔らかいルール」ということです。医療従事者もいったん刑事責任とかいうことは全部忘れて、忘れられないとしたらとりあえず脇に置いて、目の前の患者にいったい何ができのかを考えるのが本筋ではないでしょうか。p108


看護師として、がんの末期の患者さんなどを担当する場合には、
悩むことも多く、仕事としてもとても大きな負担であり、消耗する。

無力さを感じたり、反省することもたびたびあり、
これでよかったのだろうかと、何かしら引きずったまま、
患者さんが亡くなり、
そしてまた新しい患者さんと出会う。

なにか学びを積み重ねているだろうかとか、
看護師として何かできることが増えたのだろうかとか、
考えることもあるけど、
なにも変わっていないような気もする。

人生のクライマックスをともに過ごさせていただいたことに、
感謝の気持ちを持つと良いのだろうかと思うこともあるけど、
それがどんな意味を持つのか、
まだよくわからない。

答えがないことは苦しいことでもある。

それでも、
「目の前の患者にいったい何ができのか」、
ということを考えて、
できることをするということしか、
ほかにできることはないのだなと思う。



呼吸器をつけていても一人の人間なのに、そうした患者が施設や病院にたまっていくことを、ある医師が「焦げ付き」と表現した。医療財政が逼迫する中、延命治療中止の議論はまるで人の命を値踏みし、棚卸をしたいように見えます。p110

国は末期の患者にかかる「終末期医療費」を、死亡前一か月の平均入院医療費112万円に、医療機関での年間の死亡者数約80万人をかけた約9000億円と推計しています。「それはかかりすぎだ」という考えの下に、病院ではなく自宅や施設などで死亡する人の割合を現在の約二割から四割に引き上げ、給付費ベースで2015年度に約2000億円、25年度に約5000億円を削減しようというわけだが、10兆円かかっている老人医療費全体から見れば10%にも満たない。p112

米国では老人医療費に占める終末期医療費の割合が1980年代には30%を超え、社会的に大きな驚きをもたらしました。それと比べ、現在の日本の終末期医療費は決して高いわけではない。国の議論は「終末期医療費が高いから削らなければ」という誤った前提から出発しています。p112

人が生きるか死ぬかということにも、
「お金」という問題は必ずついてくる。

「お金」の問題は、極端に言えば、
原子力発電所を作るのに使うのか、終末期医療を充実させるために使うのか、
というような、
選択の問題なんだろうと思う。

終末期医療を受ける人の立場というのは、
社会的にはマイノリティーになるから、
民主主義の世の中では、
予算が少なめに割り当てられることになるのだろう。

逆に、高齢者というくくりは、
現代ではかなりのマジョリティなので、
老人医療費全体が多いというのも、
多数決による選択の結果なのだろう。



医師が患者の死期をどの程度正確に予測できるのかという調査が米国でなされ、概して医師は患者の余命を実際より長く考えがちだという結果が出ました。日本ではこうした調査は行われていないが、私の印象では逆に余命を短く考える傾向があるように感じる。私の母も医師から「二週間もたない」と言われてから三か月生きた。いずれにしても、医師はそれほど正確に余命を予測することはできないようです。p112

日本人は遺伝的に不安を感じやすいという話を聞いたことがあるけど、
それと関係しているのだろうかなとちょっと思った。



在宅で迎える最後のほうがもっと幸せなんじゃないかという議論は大いにやるべきだが、終末期医療費をどう減らすかという議論から始める国のやり方は本末転倒です。
自宅で最後を迎えたいという患者の意思を尊重するのはいいが、家族もそれを歓迎できるような状況をどうつくるか。今の体制は貧弱すぎる。病院を出ても医師が必要に応じて24時間対応できるようにする、訪問看護師が毎日のように家に来てくれるという体制を十分に作る必要がある。そうでなければ家族が犠牲になる。p113


―家で最期を迎える良さとは何でしょうか。
病院のような規則や「こうあるべき」がないから、症状のコントロールができれば最後までその人らしく過ごせます。p114


病院よりも在宅でなくなりたい人が多いのですよ、
というような調査結果は、
ほとんどが健康な人に聞いていることなので、
その辺のことを分かったうえで判断しないといけないことだと思う。

実際に病気になって死にそうなときに、本当にそう思うかは、
わからない。

看護師として患者さんと接していても、
そりゃ家で最期を迎えらえれるのは理想だけど、苦しくなった時とかのことが心配だし、家では十分な医療が受けられないと思うし、家族にも迷惑をかけるだろうし、やっぱり総合的には病院のほうが安心できるので、病院にいたい、
というように考える人が、多いように思う。

本当にその時になった気持ちで体制を整えることを考えないと、
本当にその時には多分役に立たないのだと思う。



―日本人の死はどう変化したのでしょうか。
昔の結核全盛時代は自宅療養が大半で、死は自然な生活の中にあった。今はがんなど症状の難しい病気が死因の上位を占め、病院で治療を受けなければならない。その延長上の死も生活や人生から遮断され、自分らしいい最後は自ら選択しないと迎えられない。「死を創る時代」になった。p116


私は、本書の中のインタビューでも話したことだが、人生の最終章を自分なりに納得のいく形に創ろうといないと、よりよい死を迎えられない時代になっていると、かねて語ってきた。そのことを、「自分の死を創る時代」というキーワードでとらえている。p235

この本が出てから10年近くがたつわけだけど、
「死を創る時代」というキーワードはまだ浸透していない気がする。

「終活」とかいうような言葉に変化して、浸透してきているのかもしれないけど。

「終活」という言葉だと、
葬儀とかとも結びついているので、利益を得られる団体があって、
広まりやすいのだろうと思う。

自分の死を創る、
といっても、
何らかの欲望が直接満たされるわけでもないし、
誰かが儲かるわるわけでもないので、
一般的に普及するのは難しいのかもしれない。



尊厳死の議論があるけど、日付入りの意思なんて信じるな、日に日に変わるんだから。父を見てそう思った。元気だった時に覚悟して書いた意思は変わる。人間に首尾一貫性があることが立派だとは思わない。p212

自分には首尾一貫性がないのに、
他人には首尾一貫性を求めてしまうということろが、
誰しもあるのだと思う。



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