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zoom RSS 終末期患者からの3つのメッセージ

<<   作成日時 : 2017/05/06 23:59   >>

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終末期にある患者さんの気持ちを、
少しでも理解できるようになれたらと読んでみた。


本書より参考になったと思うところ。

客観的には幸福だったであろう方が「私は世界一不幸です」と嘆き、客観的にはこれ以上の過酷な人生はないかもしれないという方が「先生、私は幸せでしたよ」と柔らかい笑みを浮かべた。つまり、幸福か不幸かは、そう思えるかどうかにかかっていることがわかった。
死もそうだ。もちろん身体的な苦痛が取り除かれなければ、誰も生に肯定的な意味など見出しえない。早く死にたいと願ってしまうだろう。しかし身体的な苦痛が緩和されたとき、必ずしも終末期の患者さんの心が絶望で満たされていないことに私たちは気がつく。p3


身体的苦痛が取り除かれれば、
という条件というのは、
そう簡単ではないのかもしれないなと思う。

身体的な苦痛に耐えながら、早く楽になりたいと言ってみたり、
面会にきた子供の顔をみて少し微笑んだり。

苦痛が緩和されるように対応することは大切なことだけど、
苦痛が緩和されていない時でも、
患者さんの心にあるのは絶望だけとは限らないと思う。

そんなに単純なものでもない気がする。



病院死の増加も目立つ。1977年、病院死と在宅死の総数が逆転して以来その差は開き、現在では78.6%(2008年)が病院で亡くなっていることになる。p15

このように、時間的にも空間的にも、そして心理的にも死は遠ざかった。一方でテレビドラマや映画では変わらず死が、真実とはだいぶ異なった形で扱われ続けている。それは往々にして美化された死である。30歳で亡くなったある女性は「きれいごとで参考にならない」と言った。死んでいく者とそれを見守る者、そこにある程度以上の軋轢が起こるのは当たり前なのである。誰もが死を受け入れている予定調和な死など、ほとんど存在しない。p17


年間に約112人に1人が死亡している計算となる。p26

死は、ほんとはけっこう身近なものなのに、
遠ざけられてしまっていて、
作り出されたイメージが先行しているのだな。



余命6ヶ月いないの終末期である場合、患者本人に病院が病名を告知したケースは45.9%だった。同じく治療方針の確認は47.2%。余命の告知は26.6%、延命処置の希望の確認は15.2%とおしなべて低い。これが家族への告知となると、病名の告知が95.8%、治療方針の確認が83.4%、余命の告知が90.8%、延命処置の希望確認が86.8%となる。p28

死にゆく人に、
これから死にますよ、
と伝えることの難しさ。

全ての人は間違いなく死ぬのに、
なんでだろうかと思う。

はっきりしているか、
漠然としているかの差だろうか?

それから、
本人に、死ぬということを伝えないことは、
優しさなのだろうか?とも思う。

伝えたあとに、その人の気持ちを支えるのがたいへんだ、
ということなのかもしれない。

どうするのが良いのかは、
時と場合によってで、
一概には決められないことだと思うけど。



亡くなってゆく方々は、一度その気になればわずかな時間でも多くのやりたいことや準備を終えられる。健康な人間に同じことができないはずがない。無限に今が続くと思っているから、瞬発力が出せないし、今の境遇を嘆いてばかりなのである。p34

死期が近いことを知って、
「今までありがとう」と伝えたい人がいるとしたら、
死期が近いことを知るより前から、
ちゃんと伝えておいたらいいのかもしrないな。



人は、自らの実現能力をはるかに上まわることを望むものだから、常に不満が絶えないのである。そして、ある者はより多く獲得しようとし、ある者はもっているものを手放すまいとして、争いが起こるのだ。
マキアベェッリ(塩野七生)『マキアベェッリ語録』p36


逆に、
自分の能力を少しだけ上まわることを実現しようと望めば、
生き生きと生きられるのかな。



ちょっといじわるな見方なのかもしれないが、人に受け入れてもらえないからこそ、精緻な理論を作ったりするのではないかと思うことがある。簡単に受け入れられるような人間は、渇望が少なく、精緻な理論がなくても満たされる。受け入れられないからこそ、この世の奥底まで突き詰めて考えるようになり、理解してもらいたいという渇望が湧き上がり、作品に結実する。p42

精緻な理論を作る人も、精緻な理論を必要としない人も、
受け入れられたいという渇望はあるだろうと思う。

非凡な能力を持つ人も、平凡なしか持たない人も、
その人なりに色々と考えて、悩んだり苦しんだりしながら、生きていると思う。



他人を完全に理解することなどできない。親であろうと、子どもであろうと、長年連れ添った配偶者や、仲の良い恋人でさえ。けれども異なっていると、理解できず、また理解してもらえない。それが怒りにつながる。そして決定的な出来事や長い時間が経つことによって、怒りは憎しみや怨みに化けてゆく。p60

関係が近ければ近いほど、些細な違いが許せないということがある。また親密な関係では、些細な違い、けれどもそれが決定的なものだったがゆえに、その人間のすべてがマイナスに転じてしまうことさえある。人が隣人を愛するというのは、とても難しいことなのだ。p60

これは確かにそうだなと思う。

身近な人には、理解してくれて当然、あるいは、理解しようと努力してくれて当然、
と、思ってしまう。

当然、身近な人ほど、
赤の他人に比べれば、
理解しようとしてくれているはずなんだけど、
まだまだ足りないよと、
思ってしまう。

身近な人にこそ、
感謝しないといけないのに。



ある実験で、一旦エレベーターが万人になるまで人をつめこんでから、一度外に出てもらってその人たちに仲良くなってもらい、もう一度エレベーターに乗ってもらうと、二度目は全員入りきらなかったという。つながりがある人間同士の間ではある種の遠慮が生じるが、そうでない場合にはいくらでもぶつかり押しあえる。p69

面白い実験だなと思った。

満員電車に乗る人がみんな顔見知りだったら、
電車に乗れる人の数が減ってしまうな。



人生において何をどう決断してきたかと同じくらい、いやそれ以上に、どういう人と出会い、どういう人と生き、どういう人と別れてきたのか、それが語られるのが人生の振り返りである。つながりは誰かの生涯、いや誰かの生涯が終わってさえも、生き続けるものなのだ。p83

自分で自分がどんな人間なのかを考えるときには、
自分の周りにいる人について考えてみたら、
良いのかもしれない。



いまの人生とおなじ人生は二度と手にすることができない。この人生ではたしてきた役割をもう一度演じることも、もう一度これまでとおなじように人生を経験することも、けっしてできない。あの両親のもとに生まれ、この家族をもち、このこどもにめぐまれ、この環境、この状況のもとに生きてきたように、この世界を経験することは、もう二度とできない。おなじ顔ぶれの友人をもつことも、今回の生かぎりである。あの海、あの空、あの星、あの愛する人を、最後にもう一度だけみたいと願うようになるまで待つ必要はない。いまこそ、それを、しみじみとみてほしい。
エリザベス・キュブラー・ロス『ライフ・レッスン』p180


ついさっき、
雲間から月が出ていたので、
少しだけ眺めてきた。



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