看護師父さんの仕事と生活の記録

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zoom RSS 臨床とことば 河合 隼雄 鷲田 清一

<<   作成日時 : 2015/08/02 23:23   >>

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臨床心理学者と哲学者の対談。

人間について、人間関係について、
勉強になった。


以下、
参考になったと思うところの抜粋。

抜粋が長めです。


たとえば人間には、憎いけれど好きだとか、アンビバレントな矛盾した感情があることが、ある意味でリアルな感覚の根本にあると思うんですよ。よく言うんですけど、人間は皆自分を探していると。でも正直なところ、本当に皆自分なんかになりたいのかと思う。自分になりたいけど、自分でなくなりたいという、正反対の感情に魅力を感じますし、あの人が持っているからほしい、でもあの人が持っているからほしくない。モードもそうですね。対立するもの、矛盾するものを持ちえているというのが、人として生きえていることだと思うんです。いい加減で両方持っているときに、二者択一でどちらかというふうに分裂してしまうと、苦しいことになりますね。p61

自分というのは、あいまいなものだと思う。

まわりの人からは、
あいまいでは困る!と言われるかもしれないけど、
そんなこというまわりの人もあいまいなのだから、
言われたことはその半分くらい聞いておけばちょうどいいのかもしれない。



ともかく全員が同じものをあてがわれるということほど、人間をだめにする方法はないんじゃないでしょうかね。だから、これは「魂を殺す」のにいちばんいい方法だと僕は思います。p172

検査のためとかで、病気というわけではない元気な人が入院してきても、
病院では病人のように見えてしまう理由は、
こういうことが影響しているのだろう。



分かる、理解するというのは、感情の一致、意見の一致をみるということではないということ。むしろ同じことに直面しても、ああこのひとはこんなふうに感じるのかというように、自他のあいだの差異を深く、そして微細に思い知らされることだということ。言いかえると、他人の想いにふれて、それをじぶん理解の枠におさめようとしないということ。そのことでひとは他者としての他者の存在にはじめて接することになる。p191

これに続いて、
以下の部分も大切だなと思った。

このように見てくると、理解するとは、合意とか合一といった到着点をめがけるものではなく、分からないままに身をさらしあう果てしのないプロセスなのではないかとおもえてくる。一致よりも不一致、伝達よりも伝達不能、それを思い知ることこそが、理解においては重要な意味をもつ、と。そういう苦い過程を踏んだあとでこそ、「あのときは分からなかったけど、いまだったら分かる」ということも起こるのではないだろうか。そのとき、そういう過程をくぐることで、私自身が変わったのだ。そういう出来事が起こることが大事なのであって、その場で分かるか分からないかはたいしたことではない。理解はつねに時間的な出来事でもあるのだ。そのかぎりで、他者を理解するということのうちには、他者の想いにふれ、それを受け入れることで、自己のうちで何かが変わる、これまでとは違ったふうにじぶんを感じられるようになるという出来事が起こるということが含まれているのだとおもう。p193

他人とのかかわりの大事なところは、
他人と自分の違いを知り、それを認め合うということ。

すぐにそれができなくても、あきらめないということ。

生きている限り、最終的な答えがでることはなく、
すべて中間的な答えであって、今後変化する可能性のあるだと思っておくこと。

変化してよいのだと思っておくこと。



生きる力というものは、じぶんの存在が他人のなかで意味があると感じるところから生まれる。p198

親としての生きる力は、
子供からもらっています。



ドジも横着も、だれかとの関係のなかでそういうことが起こってしまうと、意図とは関係なしになんらかの意味をもってしまう。そして、「ああ、また薬の時間を忘れている」、「大丈夫かな、あの人・・・」と、はらはらしながら他人に気を揉んでいるときには、患者はこんなじぶんでもここにいることに意味はあるのだろうかなどといった問いから解き放たれる。p199

新人看護師が、患者さんに人気があったりする理由。

最近の病院では、患者さんの回転が早い(入院から退院までの期間が短い)ので、
新人看護師のドジっぷりを楽しむ余裕のある患者さんも、
少なくなっているかなと思います。



家族のなかでは、相手が漏らす一言一言に過剰に反応してしまう。いちいち言わないでも分かっているといった、思い込まれた内密さが、わざわざことばを口にすることに過剰な意味づけをしてしまう。その意味づけが言外の傷つけあいを招いてしまう。そしてふたたび、ことばを呑み込むのがいちばんいいということになる。甘えが思いやりになり、思いやりがこんどは、ひどい仕打ちに、あるいは頑なな防御に反転してしまうというのが、家族という関係だ。「分かっている」という一方の思い込みが、「分からない」という事態を許さぬところがあり、「分からないであたりまえ」という他者どうしに、たがいがなかなかなりきれないからだ。p204

家族だけでなく、ある程度親しい間柄ではこういうことが起こるのだと思う。

近所のひとや職場の同僚など、
よく顔を合わせる人との関係の方が難しくなりやすかったりする。

よく顔を合わせていても、
「分からないであたりまえ」という思いを持ち続ける必要があるのだな。



河合は、「近代医学の方法を看護に使うのはおかしい。わかりやすい言い方をすれば、人間関係を入れないということで近代医学は成立するわけでしょう。関係を切って現象を見ているから、普遍性が出てくる。しかし看護であれ何であれ、僕らは関係のなかで生きているわけですから、人間関係を根本にして考えるというところで、臨床の価値が出てくると思っているんですけどね」と語る。p245

看護師として、
人間のこと、人間関係のことをもっと勉強する必要があるなと思った。





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